両陛下の生き方に学ぶ
全存在で示された思いやり
「贈るとすれば『感謝状』です」と天皇陛下が言われると、「心を込めて『感謝状』をお贈り申し上げます」と皇后陛下。結婚50年を迎えられた両陛下の記者会見を自宅のテレビでみた。
「うちもこんな風になりたいね」。結婚20年を迎え、私が妻に言うと、「(両陛下とは)スペック(仕様)が違うよ」と高校2年の娘。違うといえば違うが、「結婚もしていないのに偉そうに」と心の中で娘に反発した。
皇室との思い出は昭和63年夏。毎日新聞静岡支局の記者だった。昭和天皇が静岡県下田の須崎御用邸にご静養に来られた時、取材で駆けつけた。
下田駅に降り立つ昭和天皇。大勢が駅を取り囲み、日の丸の小旗を振りながら万歳をしていた。涙を流している年配のご婦人もいた。テレビを通じてしか知らなかった皇室だが、「本当に国民から慕われているんだ」と素直に納得をした。
それから数カ月後の秋。昭和天皇が重体になられ、応援で本社社会部にいた。皇居や東宮御所などの門の前で報道各社の記者が24時間態勢で張り付いた。陛下に何かあれば、皇室の関係者が動くため、各社とも記者を“門番”として配置し、いち早く動きをキャッチしようというものだ。
応援部隊の私も約2カ月、“門番”に組み込まれた。壮大な無駄にみえるが、マスコミはそんなものと、自分に言い聞かせて“門番”を続けた思い出もある。
そして―時代は昭和から平成へ。私も記者から議員に。そんな中、今の両陛下の忘れられないシーンがある。平成7年1月。阪神大震災のお見舞いだ。避難生活を送る人々の前で、ひざをつき、同じ目線で励まされる両陛下。その前に視察に訪れた村山首相が後ろに手を組んで、立ったまま被災者に声をかけていた映像とは対照的だったのを覚えている。
まさに、国民の痛みを自らの痛みととらえる両陛下だった。天皇陛下は結婚前に東宮参与の小泉信三氏に語っている。「自分は生まれからも、環境からも、世間の事情にうとく、人に対する思いやりの足りない心配がある。どうしても人情を通じて、そういう思いやりのある人に助けてもらわなければならぬ」(文芸春秋・昭和34年1月号)
両陛下の50年は国民に対する思いやりを全存在で示されたと思う。「日本一の公人ね」と、妻は私に言った。政治家も“公人”としてこの両陛下の生き方を学ばねばならない。
(平成21年4月15日付 夕刊フジより転載)