そこを何とかする男の3実績
拝島駅周辺は、南北の通行に「500m先の踏切まで遠回り」か「120円の入場券で通行」との不便が30年間も続けられていました。平成14年「なんとかしてほしい」との声を聞き、高木陽介が視察。高木の提案で、国、都、昭島・福生市、JR、西武が初めて同じテーブルにつき、「どうせ無理」とあきらめていた問題に、解決の道が開かれました。さらに、1万4000人の署名がこれを後押し。平成16年、当事者間で合意に達しました。
そして平成19年8月、拝島駅が橋上化され、南北自由通路の暫定供用が開始。30年間の不便がついに解消されました!
国道20号が原因の交通渋滞。24年間続いた日野革新市政はこの問題を放置。これを打ち破った新市長は「日野バイパス開通を!」との市民の願いを国土交通政務官(当時)の高木陽介に届けました。「やってみます!」と即決断。力強いリーダーシップを発揮し、開通にむけた事業の決定と予算化を進めました。
平成19年3月に国立府中IC入口交差点から八王子市高倉町の国道20号線に至る路線が
開通!
同年4月には同線が国道20号線として移管されました。24年来の“そこ”がなんとかなりました!
多摩発展の課題として、早くから南北交通網の整備が指摘されていました。昭和47年、公明都議が初めてこの問題を取り上げ「モノレール建設構想」を提言。夢物語と言われながらも、多くの難題を乗り越え、平成元年「多摩都市モノレール計画」が策定。平成5年、高木陽介が衆議院に初当選するや、さっそくこの問題をライフワークとして着手。「多摩地域都市モノレール建設促進協議会」(26市町村)にも携わり、“国の窓口”として、あらゆる要望を国政に。高木の活動により、国からも積極的な支援を得て、平成10年「多摩都市モノレール」が開通。公明都議の初質問から26年。“そこ”がなんとかなりました!