よみがえる札幌五輪の記憶
4年に1度は政治も同じ
「あなたはいつの五輪から覚えていますか」。4年に1度の五輪だからこそ、思い出は世代によって異なる。
私は東京五輪からが記憶に残っている。当時まだ5歳だった。貧しかったわが家にテレビがやってきたのは、忘れがたい思い出だ。マラソンで日本の円谷が英国・ヒートリーに抜かれ、3位になった場面は子どもながらに悔しかった。
一方、冬季五輪の思い出を聞けば、「札幌」派と「長野」派に分かれるのではないか。私と同年代(ちなみに50歳になってしまった)以上の方は「札幌」派が多い気がする。
「長野」も捨てがたいが、やはり印象深いのは「札幌」だ。
日本で初めての冬季五輪の札幌大会が開かれたのは38年前の1972年。実は1940年に開催予定だった東京五輪とともに、冬季大会も同じ年に、札幌で開く予定だった。しかし日中戦争の激化を受け、日本政府は東京、札幌ともに開催を返上した。
「幻の札幌五輪」から32年後、アジア初の冬季五輪となった「札幌」は、何といっても「日の丸飛行隊」のジャンプ陣が圧巻だった。
70メートル級ジャンプ(現在のノーマルヒル)で笠谷、金野、青地の日本勢が金・銀・銅のメダルを独占。「さあ笠谷、金メダルへのジャンプ!」「飛んだ!決まったー!!」。NHKのアナウンサーの叫びは耳に残っている。
この時が日本にとって冬季五輪で初の金メダルだ。その後、アルベールビル(92年)、リレハンメル(94年)のノルディック複合団体の連覇。長野(98年)ではジャンプ団体など5個の金メダル。前回のトリノではフィギュアの荒川静香と、これまでの冬季の金メダルは合計9個。
さて今回のバンクーバー五輪。日本のメダルはこれまで(23日現在)、銀1個に銅2個。
選手たちは、4年に1度の大会を目指し、厳しい練習を積み重ねて挑戦するが、“世界一”という称号はそう簡単ではない。しかし、金メダルに届かなくても、その過程のドラマに多くの人が感動するのが五輪だ。
「4年に1度」でいえば、私たち衆議院議員の任期も同じだ。4年に1度の選挙(解散で短くなることも多いが)という舞台も、その間に何をしたのかということが問われてくる。単なるパフォーマンスだけではメダルは獲得できない。政治も同じことがいえる。
(平成22年2月24日付 「夕刊フジ」より転載)