連載14 携帯メールは便利だがコミュニケーション能力が低下


 
携帯メールは便利だがコミュニケーション能力が低下
 
 
 
 
 
 
活字や対面の会話は内容が濃い
 
 
 今、電車の中でコラムを読んでいるあなた。隣の人は何していますか。携帯メールを打っている人はいませんか。
 
 東京・日野市在住の私は、JR中央線と地下鉄丸の内線を使って通勤する。
 
 先日、帰りの中央線の中でのこと。吊り革につかまりながら読書をしていた。目の前に座っている人たちは、7人掛けの席に男性3人、女性4人。そのうち3人がメールを打っている。残る4人は、中年男性が雑誌を読み、3人は熟睡していた。
 
 左右に目を移すと、吊り革につかまっている8人(私も含め)のうち3人がメールを打っている。ちなみにこの日は、新聞や本を読める程度の混雑具合だった。それなのに、本を読んでいる人が少ないことに驚きを覚えた。
 
 高校時代は約1時間半の電車通学だった。柔道部の練習の後、電車で熟睡することもあったが、往復3時間は移動図書館だった。その時代の読書によって、今の自分の考え方が形成された気がする。
 
 大学を出てからも新聞記者という職業柄か、「活字」を求める気持ちが強い。今でも電車の中は図書館のつもりだ。
 
 活字は想像力を豊かにする。テレビなどの映像はイメージしやすいが、固定的になる。
 
 例えば、「赤い」という活字でどのような赤を想像するだろうか。赤ワインのような赤。夏の夕焼けのようなオレンジっぽい赤・・・。活字によるイメージは幅広い。
 
 一方、情報伝達のツールとしてのメールは便利だ。だが、メールの普及でコミュニケーション能力が低下していると感じるのは私だけだろうか。
 
 活字の想像力と共に、対面の会話は、心を大きく動かす。相手の言葉の響き、態度、目の輝き。さまざまな要素で、その対話の内容に深みが加わる。
 
 確かにメールで意思の伝達はできる。しかし、便利なゆえに、かえって本来のコミュニケーションが成立しずらくなっている。
 
 それは国会審議でも当てはまる。本来、国会の質疑は真剣勝負。ところが、質問者と答弁者のやりとりが、かみ合っていない場面が多いのだ。
 
 追及していると思っていたら、うやむやのまま次の質問に移る議員。あと一歩踏み込めば、大臣答弁で成果を引き出せるのに、踏み込まない議員。なかには、演説だけで質疑になってない人もいる。一度、ネット上の国会中継を見てください。
 
 国会議員のコミュニケーション能力が欠如しているから、反動でパフォーマンスに走るのか。先日の衆院千葉7区の補欠選挙。政策よりもパフォーマンスばかりが目立った。メール時代と活字離れも影響があるかもしれない。
 
 ちなみに先の電車の中で、「夕刊フジ」を読んでいる人は周りに2人いました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(平成18年5月2日付 夕刊フジより転載)
 
 

2017年02月20日